はじめまして。
娘は、小学校から不登校が始まり、現在は中学校2年生です。
もうじき3年生になり、高校受験のある学年です。
今までいっぱい葛藤してきました。
私の経験してきたことが、少しでもみなさんのお役に立てる情報になれば…と思い、
ブログを立ち上げてみました。
拙いところも多々あると思いますが、どうぞよろしくお願いします。

娘は幼稚園の時から、少し行き渋りがありました。
早生まれなので、小さい頃は年齢(月齢)の差も大きかったところもあるかもしれないけれど、
今思い返すと、おそらく当時は家庭内も完全には安心できる場所ではなかったのだと思います。
それについては、いずれ触れたいと思います。
まずは、小学校の時の娘の様子と不登校になった経緯を記そうと思います。
SOSは始まっていた

小学校1年生
娘が学校に行きづらくなったのは、小学校1年生の頃からでした。
強い男の子が隣の席になったり、近かったりすると、行くのがとても嫌だったようです。
娘は既に苦しい思いをしていたのだろうと思います。
当時の担任の先生は、とても優しい先生で本当にお世話になりました。
朝から行きたがらず、一緒に手をつないで登校し、直接担任の先生に引き渡したことが何度もありました。この時すでに娘はSOSを発信していたのだと今は思います。
コロナ
小学校2年生
娘の通っていた小学校は、毎年、担任の先生が変わります。
上下動のない、非常に落ち着いた先生でした。
そんな先生だった事もあり、娘は落ち着いて通い、学校生活にも慣れてきました。
3学期の終わり頃、コロナが流行り休校になりました。
放課後に仲の良いお友達と近くの公園で2人で遊ぶ、という流れが出来始めていましたが、
遊べなくなってしまいました。
良い波に乗れ始めたところだったので、私はとても残念に感じました。
担任の先生の対応で…
小学校3年生
仲の良いお友達ともう1人遊ぶ子が増え、今まで仲良かった子がその子と2人で遊ぶ事が増えてきました。気持ちも落ち込み気味で、教室に入れなくなりました。
行かれる時は、別室登校でした。
この時の担任の先生があまり良い先生ではなく、娘には兄が2人いますが、全員好きではない先生でした。その時の状況で気分が変わる先生です。
ある日の別室登校時、その日は朝からあまり娘の精神状態が良くなく、給食を食べて帰るかどうかでギリギリの精神状態でした。半分泣きながらでも、食べて帰るという方に心が傾きかけていた時、急に担任の先生が別室に入ってきて「そんなに泣いていても決まらないでしょ!しっかりしなさい!」といった言葉を娘に投げかけました。
娘は泣きながら「帰る」と言って、帰宅することになりました。
それから、別室登校の数も減っていきました。
なぜ、そんな言葉を掛けることが出来るんだろう…体育会系の若い女の先生だったのですが、泣いているのを見てイライラしたのでしょうか。私もあまり好きではありませんでしたが、今は思い出したくない先生です。
運命の校外学習の日
小学校4年生
担任の先生が変わり、1学期は校庭で行う体育の授業に時々参加できるようになりました。
少し良い波に乗れそうかな?と思った矢先、足に病気が判明し、即入院・手術となりました。
手術は無事に成功して退院し、夏休み直前には、以前から仲の良かったお友達と教室に入って掃除をするまでになりました。
でも、夏休みが明け2学期に入り、仲良かった子があんまり声を掛けてくれなくなりました。
娘も不思議そうでした。
意図したものではなかったと思うのですが、4年生くらいは第2次成長期の初期の頃なので、母親の私がそばにいる娘には声を掛けづらかったのかもしれません。
娘は今までと違うその子の様子に戸惑い、また学校へ足が向きづらくなりました。

そして、秋の校外学習の日です。朝から本降りの雨でした。
朝からなのか途中からなのか、今は確認できませんが、大雨警報が出た日でした。
その日、娘は意を決して「校外学習に参加する」と言い、コロナ休校以来、初めてクラスに一人で参加しました。
担任の先生は、バスの座席に関して、近所に住んでいる比較的仲の良い子の隣の席と、班分けされた中の1席と、合計2席分を確保してくれていて、バスに乗る前に娘に選ばせてくれました。本人の意思で班分けされた席を選んで座りました。
行った先では大雨でみんな無言で歩き、トンネルの中で昼食、寒さと暗さとみんな無言の昼食だったようです。そして帰りのバス(行きも)、隣の席の女の子は、通路を挟んだ反対側の席の子とずっとおしゃべりしていて、娘とは一言も話さなかったようです。意を決して参加し、少し楽しみにして行った校外学習は、本人にとって散々な思いをしたようで、そこからパッタリと学校に行かれなくなりました。
ついに、完全な不登校になった瞬間です。
娘本人の中でも「行きたい、行きたくない」の狭間で、ずっと苦しかったかも知れません。
これを境に、私もようやくはっきりと学校に行かせることを諦めました。
うつ状態に近くなった頃
小学校5年生
新しい担任の先生は、よく家まで様子を見に来てくれました。
でも学校には行かれませんでした。
秋頃には、夕方まで寝ていて、日中にリビングに起きてくることが出来ず、お風呂にも入れず、うつ状態に近くなりました。
散歩したり、近所のスーパーに一緒に買い物に行くのも嫌がりました。
きっと、「学校行かずにサボっている」と思われるのが嫌だったのだと思います。
それでも、家にいる時は会話が普通に出来ていました。それが私の中でも救いでした。
少し前を向けた時期
小学校6年生
娘にとっては、苦しい思い出のある小学校が残りあと1年。
そういう思いからなのか、春頃にはうつ状態から回復して、中学校のことが考えられるようになりました。

中学校は、学区内の公立中学校と、以前から気になっていたフリースクールと平行して通おうかと話が出ていました。フリースクールを6月頃に見学した時は、学校と違う雰囲気が良かったのか、明るい顔になり、その頃から口数がまた増え始めました。私が少しホッとした瞬間です。
ただ、秋にフリースクールの面談をしたとき、小学校生活の話をしたらその場で涙が出てしまったようです。色々な思いを抱えているのが伝わってきました。
卒業式は出ませんでした。
が、先生方が個別に、体育館で卒業式(そのもの)をしてくださいました。
もう1人、一緒に個別の卒業式に出た子がいました。
知らない子だったけれど、同級生の子。
知らないだけで、ここにも来れなかった子が他にもいたかも知れません。
不登校の子がそれなりにいるんだな、と改めて実感しました。
個別の卒業式、あまり多くの思い出はないけれど、やはり卒業できたことに涙がこぼれました。
これが、娘の小学校時代で、学校に通えなくなったタイミングを含めた6年間の様子です。
次回は、中学校での様子などを書きますね。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
